『春庵の樹木たち』について

春庵には季節を彩る様々な木々が植えられています。
この記事は「春庵だより」の初期デザイン時代(当初はA3版でした)、当法人本部長に不定期で
掲載していただいた文章をホームページ用に再構成したものです。

春庵の樹木たち

【山桜(やまざくら)】
~2009年4月号より

我が国に自生する野生の桜の代表で、バラ科サクラ属の落葉高木である。
サクラというのは総称で、サクラという名の植物はない。
山野に自生する野生種は約三十種類あるといわれ、その中でも代表的なものがヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンである。
園芸品種は数百種類もあり、その代表がソメイヨシノである。
ソメイヨシノは、江戸時代の終わり頃に東京巣鴨近くの染井村で、オオシマザクラとエドヒガンを交配して作られたもので、実をつけない一代木で、すべて接ぎ木で作られている。
桜ほど日本人の心をひきつける花は少ない。
寒い冬を耐え、柔らかな春の陽を浴びて咲き、散り際の潔さに人のはかなさを想うのだろう。
本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」は神風特攻隊の最初の部隊が「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられた悲しい歴史もある。
絢爛と咲き誇るソメイヨシノも良いが、私は清楚な花を咲かす山桜が好きである。
山桜は、樹姿も美しいし、木肌も良い。
木材は高級家具材や楽器材・また香りの強い燻煙材(スモークチップ)として人気が高く、樹皮は樺細工や草木染めにも利用される。
春庵の庭には六本の山桜を植えた。
その後、春庵事務室のうば桜二人(怒らないで下さいね。本来うば桜とは、娘盛りを過ぎても美しい女性のことで、誉め言葉なのです。)が六本の幼木を入職の記念樹として植え育てておられる。
大きく成長するのが楽しみである。
数年前、仕事帰りの車のラジオから流れる朗読に感動をした。
藤沢周平の時代小説「山桜」だった。
短編集「時雨みち」の中の一編であるが、主人公野江の心の動きと山桜を取り巻く景色が見事に描写されていた。
それがきっかけとして藤沢文学にのめり込んでしまった。
この「山桜」は、昨春に田中麗奈・東山紀之主演で映画化されている。
里山の所々にうっすらと霞がかかったように山桜が見える。
西行法師は、「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」と詠んでいるが、まだ死ぬところまではいかないまでも、花の下で静かに寝そべっていたいものである。
しかし、この時期は、期末と期首の雑務に追われ、ゆっくりと花を愛でるゆとりが無いのが悲しい。
「しばらくは世事追いくるな花のもと」(Z)

【杏(あんず)】
~2009年3月号より

中国原産のバラ科サクラ属の落葉小高木である。
奈良時代に梅とともに我が国へ渡来したと言われる。
英名でアプリコットツリーと呼ばれる。
花はウメやサクラに似た淡紅色の五弁花で、開花はウメとサクラの間、三月の上旬頃である。
果実(アプリコット)は六月頃に熟し、生食出来るが、ジャム、シロップ漬け、干しアンズ、果実酒に加工されることが多い。
最近は杏露酒(シンルチュウ)を好んで飲む女性も多く見られる。
種子は杏仁と呼ばれる生薬で、鎮咳、去痰薬として配合され、杏仁水や杏仁豆腐の材料としても使われている。
昔、中国の呉の国に董奉という医者がいて、貧しい人からは治療代をとらず、かわりに杏の苗を植えさせた。
やがて家の周りは杏の林ができた。有名な杏林伝説である。
杏林は名医をさす言葉になっている。
また、中国の思想家孔子様は、杏の木の根本の少し高くなったところ「壇」で、弟子達に教えを説かれたので、学問所のことを杏壇(きょうだん)と呼ぶようになったと伝えられ、我が国でも江戸時代の学問所には杏の木が多く植えられていた。
現在の学校の教室にある教壇の語源にもなっている。
しかし、残念なことに最近の教壇に高さは無く、生徒達と同じ高さの床になってる。
それだけ先生達が尊敬されなくなったのだろうか(Z)